あなたは本当に“それ”が嫌いなのか

渋滞が嫌いだと言いながら、毎日のように渋滞に巻き込まれている人がいる。

この状況を少し意地悪に解釈すると、「その人は実は渋滞が好きなのではないか」とも言えてしまう。もちろん「好き」という言い方には語弊がある。でも、本当に嫌いなら、あらかじめ分かっている渋滞には突入しないはずだ、という感覚もどこかにある。

昔から「いやよいやよもナントヤラ」なんて言葉もある。あれをそのまま当てはめるのは乱暴かもしれないけれど、人は口で言っていることと行動が一致しないことがある、という点では妙に本質を突いている気もする。

「人は繰り返し行うことの総体である。ゆえに卓越とは行為ではなく習慣である」
——アリストテレス

私は通勤渋滞がかなり苦手だった。だから毎日、30分早く家を出ていた。おかげで渋滞に巻き込まれることはほとんどなかった。電車でも同じで、満員電車が嫌いだから時間をずらして乗る。多少の不便や早起きと引き換えにしても、あのストレスは避けたい。

このレベルで「嫌い」を基準にすると、渋滞に突入していく人は、どうしても「許容している人」に見えてしまう。もっと言えば、渋滞そのものが好きというよりも、「渋滞が発生する時間帯やルートを選んでいる」ように見える。だからどこかで、「そこまで嫌いではないのでは」と感じてしまうのだ。

ただ、現実はもう少し複雑だ。

渋滞は嫌い。でも早起きも嫌い。
ルート変更は面倒だし、生活の都合で時間も動かせない。

つまり「渋滞を選んでいる」というより、「他の不便との比較で、結果的にそこに留まっている」だけなのかもしれない。

ここで少しだけ視点を変えてみる。

人生をよりよく生きる、あるいは「普通より少し上」に行こうとするなら、どちらの行動パターンが有利なのだろうか。

「変化なくして成長なし」
——スペンサー・ジョンソン

渋滞に不満を言いながらも同じ時間に家を出る人と、30分早く出ることでそれを回避する人。

この違いは単に「渋滞が嫌いかどうか」ではない。
自分が感じている不快に対して、行動を変えるかどうか。
そこにコストを払うかどうか。

「狂気とは、同じことを繰り返しながら違う結果を期待することだ」
——アルベルト・アインシュタイン(とされる言葉)

早く出る人は、睡眠や自由時間を少し削ってでも、ストレスの少ない状態を取りにいく。言い換えれば、「今の不快を未来まで持ち越さない」という選択をしている。

一方で、同じ時間に出る人は、不快を受け入れる代わりに、今の生活リズムを守っている。これはこれで合理的な選択でもある。

ただ、「現状を変えない」という選択は、往々にしてそのまま固定されていく。

「我々の人生は、我々の選択の結果である」
——スティーブン・R・コヴィー

大きな差が生まれるとしたら、おそらくここだ。

嫌だと言いながら同じ場所に留まり続けるのか。
それとも、小さなコストを払ってでも環境を変えるのか。

もちろん、すべてを変え続けるのが正しいわけではない。
けれど、少なくとも“変えられるものを変えないままにしておく習慣”は、じわじわと効いてくる。

そしてふと、自分の行動を振り返ったとき、あの言葉が頭をよぎる。

いやよいやよもナントヤラ——と。

「行動がすべての成功への基本的な鍵である」
——パブロ・ピカソ

それは単なる皮肉ではなく、
「自分は本当に嫌がっているのか?」
という問いかけなのかもしれない。

結局のところ、変化は小さくていい。

出る時間を少し変えるでもいいし、
いつもと違う選択をひとつ増やすでもいい。

そういう意味では、
スキューバダイビングを始めてみる、なんていうのも
案外ちょうどいい“スパイス”かもしれない。

日常の外に一歩出るだけで、
自分の「嫌い」や「当たり前」は、意外と簡単に揺らぐ。